Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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以下に誤植または訂正等改定箇所を記載

① 10頁最終行から11頁5行目まで
「本書の内容は~に分かれます。」の文中の
「Introduction」⇒「序章」
「第一部」⇒「第一章」
「第二部」⇒「第二章」
「第三部」⇒「第三章」
「第四部」⇒「第四章」
の様に変更する。

② 10頁11行目
「とりわけ、この国の前例のない苦境と格闘する民衆がその宛先です」を、
「とりわけ、この国の前例のない苦境と格闘する民衆が本書の宛先です」
と変更する。

③ 序章19頁3行目
「<私たち>(以下「私たち」とする)」の記述部分から
括弧とその中の記述部分「(以下「私たち」とする)」を削除する。

④ 59頁14行目から15行目
「生存そのものが健康であることを願い欲望する遺伝子の改変と、個々の属性のランク付けにもとづく遺伝子の改変は、いずれも生存そのもののランク付けである。」の一文は、ゴチックにする(すなわち「生存そのものが健康であることを願い欲望する遺伝子の改変と、個々の属性のランク付けにもとづく遺伝子の改変は、いずれも生存そのもののランク付けである。」となる)。この一文を以後の記述の展開の起点となる重要な仮説として強調する必要があるため。

⑤ 86頁9行目から11行目
「(この「死刑というシステム」という一節はかつてアムネスティインターナショナルのニュースレターに書いたものだが、ニュースレターそのものが手元に現存していないため正確な号数は不明、一九九二年)。」という部分を、以下のように訂正する。

⇒(この「死刑というシステム」という一節はかつて一九九二年に書いた初稿をベースとして、『「死刑制度」試論』と題して『NPO全国犯罪非行協議会NCCD機関誌』[一九九七年、第八三号]に発表したものをリライトしたものである。)

⑥ 162頁14行目
「さらに、さらにその際、」という記述部分を
⇒「さらにその際、」
と修正する。

⑦ 175頁末尾から3行目
「母は東京女子医専の受験勉強中に」という記述部分を
⇒「母は東京女子医専の学年末試験勉強中に」
と修正する。

⑧ 207頁3行目から4行目
「それが問われなければならなりません」という記述部分を
⇒「それが問われなければなりません」
と修正する。

⑨ 227頁主要参考文献の
「Bennett-woods,Deb.(2008)Nanotechnology:Ethics and Society □Perspectives in Nanotechnology.□ Crc Pr I Llc.」の
⇒「Perspectives in Nanotechnology」の前後二つの□を取る。

⑩ 付録「私の歩んだ道」以下の各エッセイの記述を、それぞれ以下の記述に置き換える。
[1]252頁以下「一、一本の道(東京大空襲)」の記述の全体を、以下の記述に置き換える。
「今でも私の記憶の中にはっきりと残っている一本の白い「道」。それは一面焼け野原の中を、南から北へ真っ直ぐに延びていた。そこは前夜までの人の営みも一切感じられない恐ろしいほどの無人の道だった。ただ焼けただれたトタンが何枚も風に飛ばされてばたばたと舞いあがっていた。敗戦の年三月、私は、東京女子医専に通う学生だった。父母弟妹たちの疎開した後の東京中野の留守宅を護りながら一人勉学に励んでいた。
 三月九日、学年末試験が明日という日。荒川区尾久の学友の家に一泊して徹夜覚悟の勉強に励んでいた。突如として米軍来襲の警報が鳴り響いた。東京大空襲の始まりだった。夜空には真っ赤な閃光がはしる。けたたましく、そして不気味なあのサイレン、一度聞いたら忘れられない音だ。アメリカは日本の主要都市のほとんどに焼夷弾を投下し、日本を壊滅に陥れた。
学友の家は大きな病院を経営していた。幸い陸軍の将校だった学友の兄上が在宅だった。
「池の水を防空頭巾にかぶれるだけかぶれ」 
大きな正門はすでに真っ赤な炎で這い出る隙もない。「裏門から出る!」 兄上の指示で裏門を潜りぬけ曲りくねった道を広場に出た。兄上の的確な指示がなかったら、あの燃え盛る炎の中、無事に逃げおおせたかどうか分からない。
「風の向きが変わったぞ」 
私たちと広場の反対側に避難していた大勢の人たちが「わあっ」と叫びながら押し寄せてきた。もう駄目だと思ったときまたも風の向きが変わった。火事場と言うのは風がくるくると向きを変えるものだと知った。
白々と空しい朝が来た。学友の家もただの広い焼け野原。昨夜一緒に勉強した部屋はどの辺りだろう。鶏小屋に焼け爛れた鳥たちが死んでいた。一面灰色の瓦礫の広場と化した昨日までの町々。ここに昨夜まで生きていた人々は、どこへ行ったのだろう。
二〇〇九年 執筆」
[2]253頁以下「二、母と歩んだ日々」の記述の全体を、以下の記述に置き換える。
「敗戦後、母とたびたび食料の買出しに行った。そのころ、配給制度などあってないようなもので、飢えた人々は皆リュックサックを背負って農家を訪ね、なけなしの衣料などと引き換えにさつま芋、野菜その他の食料を手に入れた。米は統制品で、帰りの駅には経済警察官らしい人が見張っていた。捕まるのが怖くてホームの上を走って逃げたこともある。
 私の嫁入り用にと母が少しずつ準備してくれていた和服も、この時、農家の手に渡ってしまった。あの着物は、どこの何方が身にまとったのだろうか。知るよしもない。生きるために必死だったから、着物どころではなかった。惜しいとは少しも思わなかった。
 都会では数多くの人が焼け出され、空腹に喘いでいた。戦中・戦後のあの時代、農家の人々も様々なご苦労があったと思う。でも都会に暮らす人達の困難は並大抵ではなかった。
 買出しの行き先は、いつもは戦時中疎開していた南那須の農村だった。ある日の朝、母は突然房総の海に行くと言い出した。
「どうして海になんか行くの。知り合いの人も一人もいない所なのに。食べ物が手に入るとは思えないけれど……」
 思わず問いかけたが、母は黙っていた。そこは今でこそ賑やかな海水浴場になっているが、当時はうら寂しい漁村だった。海岸に二人で立った時、あたりには人ひとりいなくて、眼前にはただ晩秋の暗い海が一面に広がっているだけだった。

 その頃、我が家は戦争の影響で苦しい日々を過ごしていた。父は以前から血圧が高かったが、戦争中の、しかも医者も不在で薬もないという山の中の疎開先で、良い手当ての方法などなかった。終戦の年の秋半ば帰京して間もなく脳出血で急死した。まだ五十六歳という若さだった。
 音楽学校のピアノ科に入学したばかりの妹は、もともと丈夫なほうではなかったが、たぶん戦争中の食料不足や、勤労動員の過労などで健康を損なったのだろう。父の葬式後
まもなく結核と診断され、療養所に入所した。やむなく私は当時通っていた専門学校を中退した。そこは五年制の学校で、ようやく一年すこし通っただけだった。あと四年近くも父の無い私が、学業を続けられるという状況ではなかった。まして病気の妹や年少の弟がいたのだから。
 池袋の焼け跡に、いち早く開校していたタイピスト養成学校に、中野の自宅から毎日通った。人より三十分早く登校し懸命に練習した。修了後、学校から推薦され、英文タイピストとして米軍基地に生きる糧を得た。初出勤の朝、母が仏壇の父の位牌にじっと手を合わせていたことを思い出す。
 ここで四、五年働いた。考えてみれば、あの基地での頃が、年齢的に見て私の青春時代だったといえるかもしれない。けれど、なんと暗く陰鬱な日々だったことだろう。家のこと、妹のことなどが、いつも私の気持を暗く塞いでいて心が晴れることがなかった。
 けれど、そんな私にも楽しかった思い出がまったくなかったわけではない。基地での同僚の女性と打ち解けて交際することが出来た。二歳年上の人だったが、今でも顔もはっきりと覚えている。眼鏡をかけたとても聡明そうな人だった。昼休み、いっしょにイタリア民謡の『サンタ・ルチア』や、グノーの『アヴェ・マリア』などの美しい歌曲を歌ったりした。私はその頃このような歌がとても好きだった。
 一時期、日本人従業員のために、寄宿舎が建てられたことがあった。簡易プレハブのようなものだったが、私は入居の許可を得て、この女性と一室で共同生活をした。いっしょに炊事をしたり、本を読みあったり、夜遅くまで未来の夢を語り合ったり。短い期間だったが、懐かしく思い出す。私の青春時代唯一の心温もる日々だった。
 当時、日本人従業員全体の支配人にSさんという日本人男性がいた。まだ四十歳代のやる気のある人だった。この人の発案だと思うが、基地の一隅に屋根だけある小屋が建てられた。小屋の隅には巨大な釜が、二、三個備え付けられ、毎日昼前になると、その中でなにかがぐらぐらと煮込まれる。中にはチューインガム、ケーキ、チョコレート、牛肉、野菜など、ありとあらゆる食べ物のかけらが将にぶち込まれていた。この正体はなにか。米軍兵士達の大量の残飯である。
 今、聞いても信じられないだろう。でもお弁当も満足に持ってこられなかったあの頃、このあつあつの雑炊は日本人従業員達の飢えをすこしでも和らげる貴重な栄養源となった。こんな酷い食料不足の時代が、五、六十年前の日本に存在していたなどと聞いたら、それこそ今の若い人など「ウッソー」と笑うかもしれない。
 日本人のメンツも捨てて米軍当局と交渉したSさんは、努力の甲斐あって見事残飯払い下げに成功し、私たちを救ってくれた。こういう飢えた日本人たちが、その後不死鳥のように甦り、戦後日本の目覚しい復興を成し遂げたのだと思うと、同じ時代を生きた人間の一人として胸が熱くなる。
 戦前、父が東京都内に持っていた何軒かの家作は、空襲で跡形もなく焼け落ち、我が家には当時住んでいた東京中野の家だけが残っていた。この家が残っただけでも運が良かったと言えるかもしれないが。
母は一家の生活をどうするか、ずいぶん思い悩んだことと思う。だがその頃、米軍の英文タイピストは比較的給料が良く、私も少しは母の重荷を背負えたのではないだろうか。其の時はそんな自覚はまったくなかったけれど。給料日にはいつも袋ごと母に渡していた。その中からお小遣いをいくら貰っていたのか、今はまったく思い出せない。もっとも当時の私はお小遣いなどほとんど必要なかった。職場と家庭を毎日往復していただけだから。
お休みの日など母と買出しに行く時、小学校五年生だった弟はいつも留守番だった。朝は始発の電車に乗り、夜も遅かった。その間、弟はたった一人。きっと寂しかったに違いない。末っ子で可愛がられて育った弟だけに不憫でならなかった。この弟はその後、人生に挫折して四十歳代半ば自死して果てた。その魂は今どこをさ迷っているのだろう。哀れでならない。
子供の頃、近くの原っぱで、弟や幼友達といつも一緒に遊んでいた。黄昏時、家に帰る道すがら二人で眺めた夕焼け雲の、あの見事な茜色の美しさ。今でも目に焼きついている。弟の死が母の没後だったことが、せめてもの慰めである。
あの頃、街なかに毛虱が発生し、電車の中などで若い米兵が何か大きな声で叫びながら、乗客の日本人の頭に、殺虫剤のDDTの白い粉末を振り掛けていた。私も仕事の帰り振り掛けられた一人である。米兵にしても日本人のために良かれと思ってしたことと思うが、でも有無を言わさぬ強引な遣り方だった。みな髪の毛が真っ白になって、浦島太郎なみの俄か老人に変身したのだが、まったく笑うに笑えぬ光景。敗戦国という屈辱が日本人を卑屈にさせていたのか、抵抗する人はいなかった。
妹の髪にも虱が湧いていることに気付いた時、どんなにショックを受けたかわからない。妹が可哀想で涙が出そうになった。病気のうえに虱まで湧くなんて……。母と相談してそれからはいつも梳き櫛を持って行き、髪を梳いて取ってあげたが、今でも思い出す。療養所の大部屋の、あの窓際のベッドで、私が髪を梳いている間じっと目をつむっていた妹の姿。忘れることなどとても出来ない。
病む妹をなんとか元気付けようと、心で泣き顔で笑うという複雑な心境だった。帰り道、暗い夜道を、涙を拭き拭き歩いたことも、今まで誰にも言っていないが、私の記憶の中から消えない辛い思い出である。
だが、今になって考えれば、妹こそ心で泣き、顔で微笑んでいたのかも知れない。それとも健気で辛抱強い妹は、今あるがままの自分を素直に受け止め、静かな気持ちでベッドに臥していたのだろうか。きっとその両方だったのだろう。
その後、妹は療養に努め、ようやく退院することができた。一年ほど自宅で静養したのち、なんとか音楽学校に復学した。妹に代って復学の手続きに行った時のこと。校門を潜って事務室の方へ歩いていった時、傍らの教室から美しいピアノの演奏が聞こえてきた。静かな曲だった。誰か学生が弾いていたのだろうか。
私はその演奏を耳にして、あの苦しい戦争が終わったこと、真の意味での平和が到来した事を実感し、身体の中を大きな喜びというか、さらに深い感動が貫いたことを覚えている。と同時に、なにか張り詰めていた気持ちが急に緩んだのかもしれないが、訳もなく涙が出てきて困った。
結局、私自身は、戦後の新しい民主主義教育を受ける機会はなかった。でも学校に行かなくても、その気になれば勉強することはできると思う。民主主義とはどういう思想か、新しい政治はどのようにあれば良いのかなど、それまでまったくの軍国少女だった私だが、基地やその後社会で働く中で色々なことを見聞きしてだんだん理解していった。
また母が明治の女だったにも拘らず、買出しの行き帰りなど、当時としては進歩的な考えを時折話してくれて、とても良い勉強になった。いったい母はどこであのように新しい考えを身につけたのだろうか。新聞や本をふだん良く読んでいたからかも知れない。
初めて婦人参政権が認められ、女性が総選挙に臨んだ時、母は「これからの日本にはきっと女の時代が来る」と言った。今まさに女の時代が花開いていることを思うと、母の先を見る眼の確かさに驚く。
様々なことを体験し、悩んだり苦しんだりした、また時には喜んだりもした戦後の一時期だった。それらの思い出が今、しきりに私の胸にこみ上げてくる。
戦前には、毎年夏休みになると、家族皆で房総や鎌倉の海に避暑に行っていた。一ヵ月ほどの滞在で、漁師さんの一部屋を借りての気儘な暮らしだった。海水着を着たままいきなり眼の前の海に直行。ザブンと飛び込むその快適さと言ったらなかった。お土産をたくさん持って週末ごとに訪れた父。父と浅瀬で水と戯れて過ごしたひととき。それは子供たちにとってはこの上ない楽しい時間だった。ビーチパラソルの下でこんな夫と子供達を眺めながら、母も女として至福の時を味わっていたに違いない。
父が亡くなった時、母はまだ四十四、五歳だった。こんなに若く父と死別したとは。今から考えると早すぎる夫との別れだった。それだけに、まだ若かった母は、父と過ごしたあの幸せだった日々を、ほとんど珠玉のように大切な思い出として、胸に抱き続けていたのだろう。

母と二人で房総の海に行ったあの時、母はどうしてあんなにも長い間、海の彼方を見詰めていたのだろうか。今でもそのことを考えずにはいられない。
海の向こうに、母は何か見たのだろうか。私の話しかけにも一言も答えず、じっと立ち尽くしていた母の背中の表情に、言いようのない寂しさを感じないわけにはいかなかった。
母は父との幸せだった思い出を抱いて、私と房総の海に立ったに違いない。憑かれたように、ひたすら海に向かい、海を見詰めていた母。あの時、母の脳裏に去来していたのは、父への思いであるとともに、現実の生活の労苦から、一時的にでも逃れたいとの願望もあったかもしれない。若しかしたら海からの誘惑と闘っていたのだろうか。
母は家族のために強く生きなければならなかった。悩みも苦しみも、さらにはあの昔の父との楽しかった宝物のような思い出さえも、すべて海に捨て去るつもりで、あの海辺に立ったのだろう。その後の苦しい生活を強く生きぬくために。
男でも苦しい戦後の混乱の中、大黒柱の父を失い、病人と子供とを抱え、心身ともに疲れきっていたことだろう。でも母は海辺に佇んで、すべてを流し去って、その後、強く生きる糧を得たのだと思う。あの海で母は再生を果たしたのではないかと、私は今思っている。
今でも、あの時の波の音が聞こえてくる。
「もう帰ろうね」 私を振り返って静かに言った母の眼差しを、はっきりと覚えている。
 波間に揺れる海藻をすこしばかり拾って袋に入れ、二人で家路についた。車窓から見る町にはもうすっかり夜の帳が下りていて、あちこちに瞬く灯火が心なしかかすんで見えた。ひとり留守番をする弟が気がかりで、帰りを急いだ。
 あの日、海から帰った後、母はなにか人が変わったように私には思えた。思い込みかもしれないが、確かに母は強くなった。それとともに家の中の雰囲気まで明るくなった。
栃木県の麻問屋の娘だった母は、当時としては珍しく高等女学校を出ていた。歌が好きで家事の傍らよく口ずさんでいた。母には音楽の才能があったのだろうか。三味線も弾きこなした。私もいくつかの長唄の曲を教えてもらったことがある。
どちらかと言えば、お嬢さん育ちだった母だったが、その後、生活の苦労を私に漏らすことは無くなった。弱音は吐かなくなった。生活のためには何でも臆せず行動した。意識して自分を変身させたのだと思う。私はこんな母を尊敬する。

戦後を懸命に生きた母も、最期は認知症を患って、今から二十八年前、八月六日のあの広島原爆記念日に亡くなった。
 母が臨終を迎えた年の暑い夏の日の午後のことだった。夫と二人で母を見舞った時、母は私の顔をまじまじと見つめてひとこと言った。
「あんた、はるえさんなの」
 息が止まりそうだった。母は私のことが解るようになったのだろうか。それまで母はまわりの人が誰か解らなくなっていて、私の顔を見ても「あんた、だれ」と不審そうに呟くだけだったのに。
「そうよ。私、はるえよ」
 すると母は目に涙をいっぱいため、急に激しく泣き出した。まわりの人たちが、いっせいに母を見つめた。それでも母はおいおいと号泣し続けた。
「はるえさん。はるえさんなのね」
 私も母を抱きながら泣いた。母が可哀想でならなかった。それまで、どうしても私のことが解らなかった母。奇跡的に記憶が戻ったのだろうか。これから回復するのだろうか。わずかだが期待が膨らんだ。
だがその後、母はまた薄明の中をさまよい出した。一週間後、静かに息を引き取ったが、あれは母の最期の命の瞬きだったのだろうか。
 母と戦後、一生懸命に生きた日々が、今は懐かしく思い出される。母の一生はやはりあまり幸せではなかった。夫と早く死に別れ、戦後の生活の苦労を重ね、最期は認知症を患って亡くなった。哀れで不憫でならない。
 あの房総の海で、じっと遥か彼方を見つめ続けていた母。
「あんた、はるえさんなの」と泣きじゃくった母。
 母の思い出は、今も激しく私の心を揺さぶる。永別の日、子供たちの嗚咽の声が低く室内を流れる中、母の魂は静かに昇天した。病室の外は咽ぶような草いきれ。蝉時雨がしきりに耳に響く暑い真夏の午後のことだった。
二〇〇四年四月五日~同八月三十日 執筆」
[3]263頁以下「三、鎮魂の歌」の記述の全体を、以下の記述に置き換える。
「永い人生を経てきたなと自身思っている私である。だがその中で「思い出の地」とあえて言えるものはそんなに多くはない。只一つ、忘れられない土地は、戦争末期家族で疎開した南那須の小さな山村である。米軍本土上陸の噂も流れ、焦土と化した東京から必死の思いで家族共々辿り着いた疎開先の光景は今でもはっきりと覚えている。低い山裾に十軒ばかりの農家が散在し、谷あいの谷津田には青い稲穂がゆらゆらと風に揺れていた。戦時中ではあったが、そこは見た目には静かな農村。素朴で牧歌的な雰囲気さえ漂っていた。
 家族が身を落ち着けたところは、ようやく雨露を凌ぐ程度の一農家の物置小屋だった。床は竹敷きでその上には筵が敷いてあった。だが農家の人の心は温かだった。それにここは米軍の空襲も無い。見上げれば、夜空には無数の星たちがきらきらと煌いていてその美しさは言葉には言い尽くせないほどだった。「ここで頑張ろうね」という父の言葉に皆頷いた。
 昭和二十年八月十五日。私は南那須山中を診療所のある隣村への道を急いでいた。紺碧の空には一片の雲もなく、その中天に真夏の太陽がぎらぎらと輝いていた。通る山道の両側は蒸れるような草いきれ、人一人通らぬ山中で耳に入るのはただ降るような蝉時雨だけだった。蝉たちの大合唱は、なにか不思議な感覚で心に響き、私には読経のようにも讃美歌のようにも聞こえた。
 大きな農家の離れを改造した診療所では人々がラジオの前に集まっていた。昭和天皇の玉音放送があるという。
「日本ポツダム宣言を受諾せり」
はじめて聞く天皇の声。それまでは畏れ多いということで、国民は天皇の声は直接聞けなかった。「ポツダム宣言受諾」とは日本の敗戦の事実を告げるものだった。子供の頃から戦争は常に身近にあった。戦争は有るのが当たり前で終わるなどということは想像も出来なかった。だがこの日、戦争は終わった。
三月十日の東京大空襲では下町の尾久で荒れ狂う戦火の中を逃げた。食料不足は酷く都会の人々は生きる糧を求めて買出しに必死だった。国民に過酷な生活を強いた長い十五年戦争が今終わったと玉音放送は告げている。だが、どうして素直にこの事実を受け入れられるだろう。戦争で命を落とした何百万という死者の魂はどうして慰められるだろう。私の心には大きな空洞があいた。空しい思いで一杯で涙一つ出なかった。
人々をあとに私は一人帰途についた。往きと同じ山道を辿った。その時私の目に映ったのは、あの山中の光景だった。照り付ける太陽、紺碧の空、蒸れるような草いきれ、そしてあの降りしきる蝉時雨。どれも往きと同じだった。国は敗れても自然は常に変わらず悠然とそこに存在している。私はこの事実の前に胸にこみ上げる感情を抑えられなかった。どの様にして家に帰ったのか、今、記憶に無い。記憶に残るのは、ただあの山道の光景だけである。
八月十五日の終戦記念日が間近い。ふと耳を傾けると、自室の前の杉林で蝉たちの大合唱が始まった。あの那須の山道の響きと重なる。それは私には戦争による多くの死者への鎮魂歌にも思える。二度と戦争をしてはいけないという死者たちからのメッセージにも聞こえてならない。
二〇〇七年八月三日 執筆」
[4]265頁以下「四、黒いシルエット(抄録)」の記述の全体(タイトルを含む)を、以下の記述に置き換える。
※「(抄録)」は削除。
「四、黒いシルエット
平成十四年一月、北海道釧路市の太平洋炭鉱が八十二年の歴史に幕を閉じて閉山した。中小はまだ残っていたが、大手の中では日本で唯一最後まで残った炭鉱だった。真っ黒な炭塵を顔にこびり付けた炭鉱マン達が、地下の採炭現場から次々に昇ってくる様子をテレビで目にしたとき、私の胸には思わず熱いものが込み上げてきた。その人たちにとって最後の昇鉱だったのだろう、きっと万感胸に迫る思いがあったに違いない。九州や北海道の産炭地で長い年月を過ごしてきた私にとっても、とてもそのまま見過ごしには出来ない光景だった。
 昭和三十年初め、夫が東京本社から九州筑豊の炭鉱事務所に転勤した。関門国道トンネル開通の少し前だった。連絡船に乗り、初めて海峡を越えてかの地に足を踏み入れた時、私はまだ若く両脇には幼い二人の娘を抱えていた。東京生まれで東京育ちだった私がこの炭鉱地帯で果たしてやっていけるのか、不安感が胸をよぎった。この特有の風土に馴染めるのだろうか。自信はまったくなかった。
 だが、それから十何年も、黒いボタ山の並び立つこの炭鉱町に住み続けることになった。二人の娘たちも、其の地で生まれた息子も筑豊弁を上手に使いこなす炭鉱っ子になっていった。けれど、ここは私にとってはまさに異郷の地だった。いつまで経っても風土にも人情にも言葉にもなれることができない。社宅のそばには鉄道の線路が長く伸びており、その上に鷹羽橋という大きな鉄橋が架かっていた。夕方、暮れなずむ空に浮かぶその黒い鉄骨を眺めるたびに、私は切ないほどの望郷の思いを募らせた。この線路の先には東京があるとの思いだった。
 北九州の響灘に注ぐ遠賀川というかなり大きい川がある。かつて石炭を運ぶ川舟が行き来した川である。その支流である彦山川の近くに、私達一家が移り住んだT市があった。当時それらの川筋には大小の炭鉱がひしめいていたが、私の夫はその中の大手の一つへ職員として赴任した。
 多くの炭鉱マン達が地底で働いていた。俗に川筋気質と言われる気性は激しいが一本気で純粋な男たちだった。町にはピラミッド型のボタ山が重なり合い、炭鉱のシンボルである高い煙突が威勢良く煙を吐きだしていた。ここはかの有名な炭坑節「月が出た、出た、月が出た」の発祥の地ともいわれていた。
 その頃はまだ炭鉱の景気も悪くはなかった。企業城下町であるその土地では、社宅も、医療も、福祉や娯楽も皆会社に依存していた。息子も会社の病院で生まれ、娘たちも病気や怪我で何回そこで世話になったか知れない。風呂用の石炭は皆会社から配給され、町には会社の体育館から映画館までそろっていた。安い費用で会社任せの暮らしができた。こんなところだから若い私もなんとかやっていけたのだろう。
 だがその反面、人間関係ではかなり気をつかった。社宅街では夫の会社での位置関係が、そのまま妻たちの立場にそこはかとなく影響した。それは無いようで有るという微妙なものだったが……。
 十数年に及ぶ九州筑豊での暮らしは、まるでモザイク模様のように入り混じって、今私の脳裏に浮かび上がる。様々なことがあった。炭鉱の事故も何回もあった。 水没事故、炭塵爆発など貴重な人命も多く失い、それらの事件が発生するたびに、暗い地底に命を失った人々、かけがえのない家族をなくした人々の悲しみを思った。炭鉱の入り口で泣き崩れる女たちの嘆きの声が今でも耳に残っている。私の産炭地生活は様々な事件や事故の話で、心を痛められながらの日々だった。
 家族の歴史の中でも忘れられないことが多い。喜怒哀楽さまざまな思いに揺られながらの日々だった。夫が入院したこと、子供たちの度々の病気や怪我、十五年も飼っていた犬の死、近所付き合いが苦手で家族以外の人とあまり会話がなかった日々、母や弟妹と遠く離れた異郷の地で、頼りになる人も無く泣きたい思いで頑張ってきた。
 長男が生まれたことは、かの地での最大の喜びだった。この子は私の宝物。私は愛情の限りを注いで育てた。娘たちも年の離れた弟をまるで母親のように慈しんでくれた。私が留守の時は二人でミルクを飲ませたり、オムツを替えたり、どんなに助かったことだろう。息子は姉たちが学校に行っている時は、いつも子犬と 一緒に社宅の裏のボタ山に登ったり降りたり。元気そのものだった。
 その後、会社の全盛時代はすっかり影を失った。石炭から石油への急激なエネルギー革命は、産炭地に嵐のように襲いかかり、どの炭鉱も見る影もなく寂れてしまった。いつだったか、テレビであの懐かしい筑豊の炭鉱地帯を映していたが、町再生の切り札としてボタ山を崩して造成した工業団地も、企業誘致が思うように進まないという。思い出深いあのボタ山、息子が子犬と遊んだあの石炭ボタを積み重ねた山が、今は誘致企業も少ない造成地となってむなしく雑草を茂らせているというのは、筑豊に様々な思いを残している人間としてとても悲しいことだ。今はどうなっているのだろうか。石炭産業華やかなりし頃の繁栄は無理としても、せめて穏やかで静かな豊かさがあってほしいと思う。
 その後、私たち家族は、博多での三年余の転勤生活を経て北海道の炭鉱町に赴任した。半年は雪に覆われる氷点下の町は、すべての妥協を許さない、まさに凛冽と言う言葉が相応しい土地だった。南の国九州とは風土がまるで異なっていた。だが家族全員風邪ひとつ引かないで三年余を過ごせたのはせめての幸せだった。
 テレビによると、私たちが過ごしていたころ、大勢の人々で賑わっていたあの筑豊の炭住街は、今わずかの残った人々がひっそりと暮らしているとか…。エネルギー変革の波に襲われて閉山が相次ぎ、多くの若い炭鉱マン達が去った後、どこにも行き場のない老人たちが、ひと気の少ない炭住街を静かに行き交う風景は見ていてもとても辛い。この人達は石炭産業の全盛時代に体を張って炭鉱を支えてきた人々なのだから…。
 石炭はかって黒ダイヤとよばれていた。あの筑豊の町には、その名も「黒ダイヤ」と名づけられた美味しい和菓子があった。駅頭の土産物店にはいつもそのお菓子が綺麗な箱に入れられて売られていたが、石炭の形に似せた握りこぶし大の黒々とした羊羹だった。あっさりとした甘みで、私も東京の親や親戚に盆暮れによく送った覚えがある。炭鉱が潰れてしまった今でも、あの羊羹は残っているだろうか。
 真っ赤な夕焼け空の中に、三角形の黒いシルエットがくっきりと浮かびあがっていたあのボタ山のある風景。今後また筑豊を訪れることは多分ないだろう。でもあの町のたたずまいは、これからもいつまでも私の懐かしい記憶の中に、残るに違いない。     
二〇〇四年一二月一五日 執筆」


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